スケッチブック 〜full color's〜 第1回 / 第2回

 とりあえず第1話を見た段階での感想を書き並べると、ちょっと気持ち悪い感じだった。気持ち悪い、というのは、俺の中で『スケッチブック』が、あそこまで「きれいな風景を見に行く」話ではなかったので、違和感を感じた、ということだ。でも読み返してみると、「印象的な風景を見に行く」という話はあるので、4コマ漫画の演出のせいで、途切れている印象がある、というか、アニメの1話分使うほどの分量があるように感じられなかったというか、そういうことである。
 ただ、第1話を見た段階で、風景を見に行く話の部分を、必要以上に嫌悪してしまった、というのはあると思う。アニメとして1話分25分程度の時間を貫く芯として、「各キャラの興味のある対象」って言う問題設定(って言う日本語は、正しいとは思うんだけれど、ちょっと微妙)を提示しておいて、空のそれを明らかにする視点で追求して行く / 話を組み立てていくって言うのは、冷静な状態で判断をすれば、妥当であると評価できる。だけど、その過程で空と渚との対比として、空は単純にきれいな風景に心奪われるんじゃなくて、彼女は風景の中にあるひとつの小道具に対して、物凄く興味を惹かれるという状態を示すときに、小道具の存在に意味はあっても、小道具が社長であることに意味はないと、俺は考えてしまったのだ。小道具が社長であったことで、本当は存在しない製作者側の悪意みたいなものを嗅ぎとってしまって(「社長を適当にマスコットキャラにしとけば、ARIAファンとか喜ぶんでしょ?」みたいな感じの製作者側の悪意ね)、そこから遡及的に第1話の改変部分全体に対して悪印象を抱いたんじゃないかしら。ちょっとバイアスがかかり過ぎかなあ、と自分で反省してはいるが、でもやっぱりあの小道具が社長である積極的な意味というのはやっぱりなくて、どちらかというと意味のない、出来の悪いクロスオーバーだなあ、と俺は評価してしまう。
 とか言うことを考えているうちに、第2話も見てしまったので、その辺も織り交ぜて以下は話をすることにする。
 第1話の段階で登場していないキャラというのは何人かいたのだが、そのうちの一人が第2話から登場した。でもキャラ単体としてはパワーダウンしてる感じがあるなあ。第1話でも、一番好きな部分は、うどん屋で3人娘がうどんを食べるとこなのだが、あの部分は葉月と夏海の行動にはそれぞれ原作に元ネタが存在するのだ。原作に準拠しているからOKという主張はちょっと憚られるものがあるのだが、俺自身の評価では、原作では空以外の他のキャラにも結構印象的なエピソードがあって、その辺が魅力のひとつになっていると思う。第2話でもそうなのだけれど、どうもアニメ版は空のモノローグを中心に話を組み立てていくやり方をとっている(多分今後もとるであろう、と思う)ので、空に絡まない部分で色々印象的なエピソードのあるキャラクタたちは、必然的に魅力がパワーダウンするのではないか、と考えている。あー、物凄い平たい言い方をすると、「俺は、栗原渚神谷朝霞空閑木陰とケイトと大庭月夜と朝倉そよぎと鳥飼葉月が好きなんだあっ! 渚と木陰と葉月とについてはまあ、ほぼそのまんま出てきたけど、朝霞の魅力は半減してるみたいなんだあっ! でもきっと出てきやしない月夜とか朝倉師匠とかに比べればまだましなのかなあ。ケイトはどうして出てこないんだろうなあ」とか、そういう不満を抱えている、ということなのだ。
 冷静に考えれば、「朝霞は、あの小学生みたいな純真な工作をやり、周囲が反応に困るような状態になるというネタは作品全体の雰囲気に合わないのかもしれないし、月夜は2巻の終わりくらいからテコ入れ的に登場したけど、原作においても使いあぐねている感じがありありとわかるし、朝倉師匠は3巻の終わりから登場していて、原作で使いあぐねてはいないようなんだけれど、あんまり登場回数が多くないし、ケイトはちょっと画面に登場するだけで空気変わっちゃうから、アニメサイドとしては使いあぐねているのかなあ」とか言う理屈付けは可能なのだが、俺は個人的にはケイトの出てくる雰囲気を結構評価していて、空がモノローグで色々考える、という空気とは明確に違うんだけれど、原作の魅力のある一側面だと俺は思うので、もうちょっと登場を考慮して欲しいなあ、というのが正直なところである。

 (追記)
 とかいう文章を書いた後で、はてなのキーワード「スケッチブック」から、以下の記述を発見した。

# ケイト:後藤邑子
# 大庭月夜能登麻美子

この二人出てくるんだあ。てっきり出てこないものだと思っていたぜ。でもやっぱり朝倉師匠は出てこないのかなあ。