昔書いたもののサルベージ行為

 タン…タン…タン。
 曲の前奏が始まる前の軽い緊張感を彼女はつま先だけを使った足踏みで和らげていた。瞳を閉じる。今まで練習し、苦労して築きあげてきたものが瞼の裏で縦横無尽に飛び回った。さあ、今こそ解放の時───
 瞳を見開く。
 同時に周囲に鳴り響いた音楽にのせて彼女は大きく一歩を踏み出した。そのまま四肢を流れるように目標としたポージングへと移行させる。ほぼ一秒きっかり、その体勢を維持してから、リズムに合わせて体を揺らすようにして次の体勢への移行を開始した。
 体勢の移行と維持の連続。
 その緩急は、曲に付けられたものとまったく一致する。いわば、同一のリズムの曲と動きによる共有。完全な曲との合一を目指し彼女は舞っていた。額から流れる汗も、汗で体にまとわりついてくる衣服も、もはや関係ない。自らの動きと周囲で鳴り響く曲。それこそが彼女のすべてだった。
「精が出るね」
 不意に、彼女の曲との合一状態に闖入者が現れる。せっかく好調にいっていたのに、と心の中で舌打ちをしながらも、彼女は動きを止めて声のした方へと注意を向けた。彼女が今いるのは木目調の床と鏡に囲われたダンスの練習場。そこにはいささか不釣合いな紺色のスーツに身を包んだ壮年の男性が彼女の視界へと入ってくる。
「何かご用ですか?」
 意図したよりもとげとげしい言葉遣いに驚きながらも、彼女はその先を続けた。
「ミーティングは明後日だったと思いますけど」
「ああ、それに先駆けて……君に少し話しておかなければいけないことができてね……」
 男はせわしなく体の前で組んだ手を握ったり開いたりしている。この男が物事をはっきり言わないのはいつものことだったが、今日はそれとは多少違うようだ。訝りつつも彼女は手近なバーにかけてあったタオルをとり首からかけて、相手の対応を待った。
「最近I‐MaidenのCDの売上は変わらないのだが、出演しているTV番組の視聴率や、フォログラフィ・ライブのチケットの売上が多少鈍っていてね、その原因を調べろとスポンサーや上のほうからあれこれと注文があったのだよ」
「はぁ」
「その結果、だ」
 こほん、と一回咳払いをしてから男は続ける。
「I‐Maidenのヴィジュアル的側面、有り体に言ってしまえば、歌に付けられた振り付けに以前ほどの魅力が無いのではないか、という話になったのだよ」
 そこまで聞いて彼女は一瞬耳を疑った。彼女の振り付けが悪いせいで、I‐Maidenが売れないとこの男は言っているのだ。首から下がっているタオルを、ぐっ、と掴みつつ彼女は男を見据えて声をしぼりだした。
「それは、私を解雇する、ということですか?」
「上層部はそういう意向のようだ」
 自分の皮肉を込めた質問へ間髪入れずに返された回答に彼女は思わず唇を噛んだ。上層部は何を考えているのだ? 三週間後にはI‐Maiden史上最大のライブが迫っているというのに!
「しかし、だ。私としても君を上に推薦した手前そういうことになると困るのでね。一応少しは悪あがきをさせてもらったよ」
「悪あがき?」
 鸚鵡返しに口を開いた彼女に男は軽く頷いた。
「入りたまえ」
 入口の方へ声をかける。それに応じてハイヒールの靴音がこちらへ近付いてきた。それには構わず男は説明を続ける。
「明後日のミーティングは中止だ。その代わり五日後に振り付け師のオーディションを行なうことになった。参加者は二名。大野恵理君、君と─」
 そのとき、部屋の入口に一人の女性が現れた。男はそちらへと視線を流す。
「彼女、三浦美樹君だ」
紹介を受けた彼女はこちらへ軽く一礼をした。恵里のほうも会釈を返す。
「今日は顔合わせ位しておこうと思ってな……彼女を連れて来たというわけだ」
 男はそういってから意地の悪い笑みを浮かべた。
「何なら少し彼女の踊りを見てみるかね?」

 部屋のドアを開けて、倒れるようにして中へ入り込む。乱雑に物の散らかった殺風景な室内を見回して、身体の疲れが一気に噴き出してきた。肉体的なものはいつものことだったが、今日はそれに加えて精神的な疲れも多い。
(あの女……)
 脳裏に今日会った女性のことがよぎった。自分と同じ振り付け師。同じ生業ゆえに、彼女の一挙手一投足についての記憶が正確によみがえってきた。同時にそれへの評価を理性が正確に加える。
 流石に自分と同列に並べられるだけあって─自惚れではなく、彼女もここまで来るのに相当にレベルの高い競争を潜り抜けて来ている─技術的には一流のものを持っていることは認めていい。
 どうしても認められないのは─自分が彼女に敵わないと思えてしまうものは─彼女の持つ一種の凄みとでもいうべきものだった。鬼気迫っているといってもいい。勿論、こちらの側に真剣味が無いというわけではなかった。相手の場合、その真剣味が風貌や動きとあいまって、一つの魅力にまで昇華されているということだった。
 踊っている最中の相手の表情を思い浮かべてみる。
 印象的なのは目。女性にはそぐわないと思えるほど鋭い目つきと、そこから発せられる威圧感。それが彼女の動きに新たな力を与えていた。踊り手として、人を惹きつける力があるというのは相当なアドバンテージとなっている。
(しかし、振り付け師としての能力には関係ない)
 誰も自分そのものを見るわけではない。自分の作り出した動き、それによる表現を見るのだ。自分がどんな表情をしていようと、どんな容姿をしていようと関係はない。
 そんなことを考えながら彼女は、ユニットバスのドアを開けた。三つ編みにしている髪をほどいて、素早く服を脱ぐ。化粧気のあまりない顔を鏡で見て、軽く息を吐いた。
 脳裏に再びあの女の全身像が浮かぶ。それを追い払うように熱い湯をシャワーから出して頭からかぶった。
 バスタオルで水気を身体から吸いとりつつ、彼女は冷蔵庫のほうへと歩み寄って、そのまま扉を開けて中を覗きこんだ。アルコールでもあれば少しは今日の気分を晴らすのに役立ったかもしれないが、明日に響くことを考えると飲む気がしない。今は時間が惜しかった。乱暴にテーブルに手をつくようにしながら、のろのろとベッドに向かおうとする。突然、ぶつん、という機械音を立てて、TV画面が点灯した。テーブルに手をついた弾みでリモコンのスイッチを押してしまったらしい。次第にはっきりしていく画面上で、人の口が動くのが分かった。
『隊長、外部からの攻撃が予想以上に強力です!』
『外部からハッキング! メインメモリーに侵入を試みています!』
 どうやらB級SF映画の類だったらしいが、わざわざ消すのも面倒なのでそのまま画面の前に座り込む。
『落ち着け! まだ敵が要塞内に侵入して来たわけではない! 外部からの攻撃は?』
『ミサイルによる攻撃のみです』
『ならば現状のバリアのみで防御可能だ! 続けろ!』
 そこでコンピュータ関係の士官の方へ向き直る。
『ハッキングの状況は?』
『敵プログラムがメインメモリーの最優先事項に登録されようとしています。目下全力でファイアーウォールを張っていますが、突破も時間の問題です!』
『なるべく時間を稼げるだけ稼いでくれ。突破されたら一気に戦況が変わるからな』
『はい!』
 威勢良く返事をして、その仕官はキーボードを素早く叩いていった。ファイアーウォールを設定しつつ、逆にこちらからハッキングを仕掛けられるような準備を行っておく。これでしばらくは大丈夫な筈だ。
 画面を見ているうちに、少しは恵理の気分も落ち着いてきた。さっきまで脳裏にちらついていた三浦の顔も今では消えている。
(やってやろうじゃない)
 オーディションであの女に勝つ。それしか今の恵理に残された道はないのだ。追い詰められた以上は戦うしかない。
『逆ハッキングに成功! このまま押せば勝てます!』
 一回大きく息を吐いて、恵理はリモコンのスイッチを切って画面を消した。

 フロアシューズの摩擦音が辺りに響く。いつもであれば単一のリズムしか刻まないはずのそれが、今日は二つのリズムの合わさったものとなっていた。シンフォニーを奏でているとはとてもいえなかったが。
 小気味いい音を立てて、片方の靴音が止まる。それと同時に別の音─女の金切り声が響いた。
「もう限界っ! 何であなたと一緒に練習しなくちゃならないんですか! 全然集中できませんよ!」
 恵理の声にもう一方の靴音も渋々といった風に止まる。軽く嘆息をして、
「私だって迷惑ですわ。でも仕方が無いでしょう? 外は雨だし、屋内で練習できるほど広くて設備の整ったところとなるとこの部屋しかないんですもの」
 そこまで言って三浦美樹は肩をすくめた。恵理が今抱えている問題の元凶。三日後に迫ったオーディションの相手。恵理はそちらのほうをぎろっ、と睨みつけると、
「私の言っているのはそういうことではなくて、何故あなたがこの施設にいるか、ということです!」
 この施設─I‐Maidenを作り出しているプロダクションのビルである。元々がコンピュータ関連の会社であったため、こういった舞踏関連のスペースがひどく狭い。そう言った事情もあって、今まで恵理がたった一人でこのI‐Maidenの専属振り付け師として雇われていたのだ。恵理の感覚からすれば、三浦の方がいわば侵入者というわけだった。
「あなたも上層部のお偉方の目にとまるくらいだから、どこかにダンススクールでも開いているんでしょう? だったらそこで練習すればいいじゃないですか。どうしてわざわざ狭苦しいこっちへ来る必要があるんです?」
「その上層部の意向ですのよ。私がこの施設内で練習すること、それが私がオーディションに出場するための条件でもあるわけです。お分かりかしら?」
小首を傾げるような仕草で勝ち誇ったような顔をこちらに向けてくる三浦に、恵理は思いきりそっぽを向いた。そのままのしのしと出入口のほうへ大股で歩いていく。
「あら、どちらへ? 練習時間はまだたっぷりとありますわよ」
わざとらしく三浦が尋ねてくるのを無視して、恵理はそのまま廊下へと出た。

 紙コップが着地する音に続いて、液体の注ぎ込まれる音が響くのを聞きながら、恵理は自動販売機に倒れ込むように寄りかかった。一息ついてからのろのろと直立に姿勢を直す。
「珍しいですね、こんな時間に休憩なんて」
 不意に背後から聞こえた声に面倒臭そうに反応した恵理の前には、よく知った男が立っていた。
「ああ、永作さん」
 I‐Maiden計画の技術班の主任を務めている。恵理の動きをキャプチャーでコンピュータ上に取りこむ作業のときにはいつも彼がそれを取り仕切っていたので、顔は良く知っていた。何度か一緒に食事に行ったこともある。
「どうかした? いつもならこの時間はまだ練習フロアにこもりっきりなのに」
「一人ならね」
 棘のある声で返しつつ、恵理は取出口から紙コップを取り出し中身を一口、口に含んだ。炭酸の刺激が心地よい。そんな彼女を見ながら、永作は手近な自販機に小銭を投入した。
「まあ、そう言うなよ。上層部も計画の最終段階に入っていて神経質になっているんだろう。それに、そのことを分かった上で契約してたと思ってたけど?」
 言いつつボタンを押し、言い終えると同時に出てきたコーヒーを取るのに身をかがめる。その後で近くのソファーの方へ顎をしゃくる。促された恵理もそちらへ行き、二人で腰を下ろした。
「それはわかってますよ。でもこの時期になってあんな無理なことを言って来るってのがわからないんです! 無理を言うにしても出来る無理と出来ない無理があるんですよ!」
「でも言い訳したところで後戻り出来る訳じゃないんだろ?」
 永作の言葉の迫力に、二の句が告げずにいる恵理に追い討ちをかけるように永作がコーヒーを一口飲んでから続ける。
「私たちの計画はただのヴァーチャル・アイドルを作って売上げを稼ぐことではないんだよ。より遠大な計画のために私たちは動いているんだから」
 分かっているのだ。I‐Maidenは単なるヴァーチャル・アイドルとしてでなく、人々の思念を集中させる対象としてのカリスマ性を帯びた存在として作られている。人々の思念エネルギーを収集する際の依代としての存在。その思念エネルギーをもって、世界を新たな階梯へと導くこと。それがI‐Maidenを中心とする計画の真の目的であり、そのことを分かった上で恵理も専属の振り付け師として契約をしている。
 分かっているといっても、知識として知っているだけで、その思想に納得している訳ではない。I‐Maidenのカリスマ性を高めるための要素として恵理の踊りが評価されているのならばそれでいいと思っている。この契約をするまでは他人に自分の作った踊りを見てもらえる機会など殆どなかった。ならば自らの実力を披露する機会があたえられたのならば、それを与えてくれた者の思想など気にしてはいられなかった。
「わかっています。それに私には踊りしか出来ないんですし、私からそれを取ったら何も残らないんですから」
「まあ、君は素人目にも充分魅力的な踊り手であり、有能な振り付け師だと思うけれどね」
 永作はそれだけ言うと、恵理の背中を軽くたたいて立ち上がった。
「少し、落ち着きました。ありがとうございます」
「何、どうってことないよ」
 そのまま自分のオフィスへ戻っていく永作の後姿を見送って、恵理は背中を壁にもたれかけた。

 次の日。オーディション二日前。昨日と同じく練習用フロアにはシューズと床の摩擦音が響いていた。昨日と異なるところといえば、その二つの異なるリズムを刻む靴音が、お互いに意識している訳ではないだろうが、殆ど絶えることなく続いているということだった。それ以外の音声は何一つない。ただ熱気だけが靴音とともに存在していた。
 恵理はその熱気を生み出しつつ、床を蹴って空中で旋回した。三つ編みにした髪と汗の染み込んだTシャツとがワンテンポ遅れてそれに続く。三浦は床に倒れこむような動作をして、その体勢のまま床とすれすれのところで体をひねって旋回した。腕や脚の露出している部分の筋肉が重力に抗うのが目にとれる。
 お互いがお互いの動作に無意識のうちに刺激され、更に高度な激しい動きへと移行した。動きが動きを呼ぶ。動き続けることで保たれる均衡。もう何時間もそんな状態が続いていた。
 恵理が見えない何かを跨ぐようにして大きく前へ跳んだ。滞空時間に余裕がある。横を向いて三浦の動きを視界に入れた。三浦の方でもポージングに入ってこちらへ視線を向けていた。彼女は彫刻のような美しさを発している。二人の目が合って─
「危ないっ!」
 均衡が音を立てて崩れた。
 着地のときに足を滑らせて仰向けに倒れたらしい。視界が一瞬にして三浦の姿から天井の照明に切り替わった。同時に背中に激しい痛みがぶつけられる。やっとのことで息を吐き出しながら体を起こそうと足に力を入れると左の足首に鋭い痛みが走った。唇を噛み、顔をしかめて声をあげるのを我慢している恵理の顔に影が覆い被さる。涙ぐみそうになった目で見ると、三浦がこちらを覗き込んでいた。
 ─いい気味だと思ってるんでしょ。
 言いかけた言葉が出ない。なぜそんな不安げな表情をするのだ。自分は彼女にだけは心配などされたくないのに。
 三浦は我に帰ったように慌ててこちらから顔を背けた。
「一人で動けるわ」
 やっとのことで搾り出した恵理の声が上ずっていたのは痛みのせいか否か。あちこちから悲鳴をあげている体を起こして、ふらふらと片足を引きずりながら恵理は練習用フロアを後にした。

 結局、医務室での診察の結果、数カ所の打撲と左足首の軽い捻挫だと判明して、その日はそれで練習を打ち切って恵理は帰宅した。本当のことを言うと、こっそり戻って練習しようかと思ってもいたのだが、医務室の先生が強く止めたせいと、あのときの三浦の表情が気になったせいとで、不本意ながら今は自宅で夕食を取っていた。残り物のひじきと野菜の煮物を口に放り込みつつ、残された時間で出来ることを考える。
 時間は少ない。実質使えるのが明日一日しかない。それもこの足ではどこまで実のある練習になるかわかったものではない。自分と三浦との能力の差はそれほど大きくはない。むしろ、限りなく同レベルだというのが今日踊ってみてわかった。ここまで来ると、後は運を天に任せるのかもしれない。それでも彼女に負けたくない気持ちは大きい。一日も時間があるのだから少しでも何か負ける可能性を減らすようなことをしたい、というのが本音だ。
 二つの反する思いに流されながら、恵理はリモコンのスイッチを入れた。気分転換にTVを見るのも悪くないだろう。画面が明転して、中にあるものの輪郭が次第にはっきりとしていった。
『左舷エンジン損傷! 出力が三十パーセントにまで下がりました!』
 この間の続きらしい映像が現れる。相変わらずの窮地に追い込まれているらしかった。
 指揮官らしい人物が周囲に檄を飛ばす。
『このまま一気に全速前進! 敵陣の右翼の守りが薄い。そこをつっきるしか生き残る道はあるまい』
『しかし!』
 操舵手の反論を指揮官は手を上げて素早く制した。
『成功率の低さくらい、俺でもわかっている。しかし、このままでは確実に死ぬのだぞ? だったら僅かでもある生存率に賭けろ! それとも貴様たちは後世の笑い者になりたいのか!』
 周囲が静まり返った。皆黙々と何かにとり憑かれたかのように作業を始める。
『エンジン全開、全速前進!』
『遠隔攻撃機全二十五機発進準備完了!』
『バリア出力九十二パーセント、あと十八時間は持続します!』
『メインコンピュータに異常なし!』
 いつにも増して真剣な表情。それらを眺めて指揮官は嘆息を一つした。
 いつのまにかTV画面は切られていた。恵理も疲れのせいかうつむいたまま眠っている。
『皆と同じように、いや私が一番か、死にたくはないと願っているのだ』

 そして、オーディション当日。いつものように練習フロアに立つ恵理は、普段とは違うざわめきの中で、多くの刺すような視線に晒されていた。隣には三浦も立っている。ちら、とそちらへ目をやると三浦は不敵そうに唇の端を吊り上げた。、まだ完治していない左足首が疼く。結局、昨日はろくに練習も出来ないまま今日の本番を迎えることになってしまった。三浦はどうなのだろうか?
 周囲は今日のオーディションのために多くの観衆が集まっていた。とはいえ、それは全てこのI‐Maidenプロジェクトの関係者である。このオーディションにプロジェクトの成否がかかっているといっても過言ではなかった。現在、上層部の言う統計を信じるならば、I‐Maidenは以前に比べてチケット売上などに象徴される求心力やカリスマ性が鈍っているらしい。それが打破できるかどうかの瀬戸際なのだ。だからこそ上層部もこれだけの人数にオーディションを公開しているわけだった。
 周囲からの視線で不安がかきたてられ、左足首の疼きが次第にひどくなる。両腕を組んで肘の上を強く掴んだ。ぎゅうっ、と体を縮めるようにしている恵理に向かって、
「あら? そんなに固まっちゃってどうしたのかしら? ひょっとして緊張してるの? それとも自信がないのかしら?」
 自信が、の辺りに妙にアクセントを置いた三浦の言い種に恵理が勢いよくそちらを向いた。下唇を噛んで、凄絶な視線を三浦に突き刺す。
「それではこれからI‐maiden専属振り付け師オーディションを開始する」 
 審査員席に陣取っている上層部の人間の一人がそう宣言すると、周囲のざわめきが水を打ったように収まっていった。恵理も三浦も黙って自分の正面の審査員席の方へと向き直っている。
「事前にこちらで行った厳正な抽選の結果、演技は三浦美樹、大野恵理の順で行う」
 上層部の宣言に恵理は面食らった。厳正さを求めるならば、今この場で抽選なり何なりを行うべきではないか。事前に非公開でやっておきながら厳正とは聞いてあきれる。
 しかし、恵理は自分の心中の主張が、自分が先に演技できないことに対する不満が原因なのではないかと思い直した。後から演技するのでは、前の人間と同じレベルの同じような内容を行ったのでも、審査員に与える印象がまるで違ってくる。後から演技する者は前に演技した者よりも高レベルなものを行うか、同じレベルのものでも相手との差異やオリジナリティを前面に押し出していく必要に迫られるのだ。
「まずは三浦美樹から」
 名を呼ばれた三浦がぺこりと一礼するのに合わせて、恵理は渋々ながら演技の邪魔にならぬよう観客たちのいるほうへ下がっていった。三浦が真剣な面持ちで構えをとる。しばらくして、高らかに音楽が、もうすぐ発表のI‐Maidenの新曲の前奏が周囲を圧倒するように響いた。
 いや周囲を圧倒しそうだったのは、音楽だけではない。三浦の一挙手一投足が周囲を畏怖させるような何かを纏っていた。理性や知性といったものに訴えるのではなく、本能への呼びかけがそこにはあった。
 恵理にとっては、動き自体は三浦とのこれまでの短い関係の中で何度か目にしたものとそう大差ない。技術的には自分にも出来る程度。しかし、技術を、頭脳を、圧倒するものがそこにはあるのだ。
 左足首の疼きによるものではない金縛りが恵理を襲う。体が動かない。いや、動こうと考えられなかったのだ。これに勝る感動を自分の舞踏は生み出せるのだろうか? 喉が乾いた。背筋が凍った。唇を噛む。こうしないと叫び出しそうで、発狂してしまいそうで、三浦の実力を意識している自分に押し潰されそうで。
 今まで静かだったフロアに拍手が鳴り響いた。
 それでどうにか周囲の状況を理解して、恵理は三浦の演技が終わったことを知った。三浦が多少不安げな表情を浮かべているのが目に入る。彼女が不安になるような出来具合だったのならば、自分も全力でやれば何とかできるかもしれない。
 その考えが─たとえ間違っていたとしても─恵理の体の金縛りを解いていった。
「次、大野恵理」
 自分を呼ぶ声に何の躊躇いもなく一歩を踏み出す。行く手から演技を終えた三浦がこちらへ歩いてきた。二人の目が合う。三浦は一瞬口元を緩めた。嘲笑とも微笑ともとれない曖昧なものだ。それの解釈を考えつつも、恵理の足取りは迷うことなくフロアのほぼ中央で止まった。
 一礼してから構えをとる。それを見計らった審査員が、先程と同じ曲をかけた。
 迷いのない動きで、恵理は演技を始めた。つま先から頭の天辺、指の一本一本の先まで無意識のうちに意識していた。次に行おうとする動きを意識すると同時に体がそれに向かって最も美しい形で移行してゆく。アドリブに近い状態でありながら、完璧に近い整合性を発揮して、恵理は踊っていた。何の迷いもない上昇志向。それが今の恵理を支えていた。三浦よりも巧く、三浦よりも魅力的に、三浦よりも華麗に。三浦という比較対象が現れたことで、明らかに恵理は変わっていった。時間は関係ない。恵理にとって彼女が変化するために必要なものが与えられただけの話だ。
 一つ、大きく跳躍して空中でひねりを加え、着地。そのときに左足に無理な加重がかかったらしく鋭い痛みが走る。思わず一瞬体勢を崩しそうになりつつも、どうにか立て直し、そのまま演技を続けた。一切の動揺はそこから感じ取れなかった。
 そしてようやく、恵理の演技も終了した。とりあえずは一ヶ所を除いてミスらしいミスはしていない。周囲からの拍手に、一つ大きく嘆息すると満足げな表情を浮かべた。今はこれでいい。改良すべき点は色々とあるだろうが、それを考えるのは明日だ。ぺこりと一礼してから、恵理は周囲の観客たちのほうへと向かった。
「お疲れ様」
 永作が声をかけてきた。軽く微笑を浮かべてそれに応じる。
「とりあえず、やるだけはやりましたから」
 久しく忘れていた競争という感覚。その中で楽しむということ。専属という形で振り付け師の独占していた時とは一味違った快感にひたりながら、恵理が軽く伸びをすると、三浦の姿がこちらに近づいてくるのがわかった。
「いい出来だったわね。私負けるかもしれないわ」
「またそんなことを。ちっともそんなこと思ってないくせに」
 苛立ち、憎しみ、嫌悪。そういった感情は今日、この数分間ですっかり拭い去られていた。軽く微笑んで三浦のほうを向くと、彼女はこちらからの反応にきょとんとした間の抜けた表情を見せていた。恵理が思わず笑い出しそうになるのをこらえていると、三浦が
「その分だと私の役目はうまくいったようね」
「?」
 恵理が疑問符を浮かべているのを見て、三浦が続ける。
「つまり、私はあなたにハッパをかけるために雇われてたってわけよ。それであなたのレベルやスキルがアップすれば言うことなし。もしうまくいかなくても、私はあの時点でのあなたより─気にさわったら、ごめんなさい─上だったわけだし、私を使えばいい。上層部はどっちにしろ、あのときにあなたよりも上の人材をゲットできるってわけね」
 その告白は別に恵理を驚かせはしなかった。今の自分があるのは三浦のおかげであるのだから。そんなことを考えつつ、どう言葉を発していいかわからずにいると、審査員席のほうから咳払いの音が響いた。全ての視線がそちらへと注ぐなか、審査員の一人が立ち上がる。
「今日のオーディションにおいて、三浦・大野の両名は非常に甲乙つけがたいレベルでの演技を見せてくれた。しかし、専属という枠にはやはり一人を選ばなくてはならない。我々のようなものがそれを決めるのは甚だ問題が多いのだが―」
 一同が息を呑む。
「今回のオーディションの結果、I‐Maidenの専属振り付け師は大野恵理に決定した」
 一転して、拍手が鳴り響く。周囲の人々の視線が自分の方へと集まるのを少し気恥ずかしく思いながら、恵理は背筋を伸ばして、しゃん、とした。
「今回の決定の理由は、実を言うと演技自体ではない」
 まだ審査員の言葉が続いているのに気づいて、大多数の人間は拍手をやめ、そちらに向き直った。
「演技自体には判断の材料になるほどの明確な差異はなかった。我々の判断を決めたのは最後の彼女のあの表情だ。いいかね、我々は今I‐Maiden計画の最終段階にさしかかろうとしている。今までの我々の総決算だ。失敗をせぬために慎重になるのはまことに結構だ。しかし、時には大胆さを求められるときもある。彼女は今心から演技を楽しみ、そして成功した。君たちに求めるのはそれなのだよ。時に大胆な行動すら可能にする、楽しむ心。そのことを示すためにも、今回のオーディションでは彼女を採用したのだ。以上だ」
 それだけ言うと、審査員が一斉に立ち上がった。そのままフロアの出口のほうへと向かう。そんな様子を眺めながら、
「これで、私はお仕事にありつけるチャンスを逃したってわけね。残念ね」
 三浦が右手をひらひらさせながら審査員の後に続くようにしてフロアから出て行こうとした。
「あの─」
 どうにかして声をかけようとした恵理に、三浦は唇に指を当ててみせて、
「何も言わなくていいわ。憎まれ役は慣れてるもの。それじゃね」
 くるりと向けられた背にかける言葉をみつけられないまま、恵理は三浦を見送った。

 それからの二週間余りは恵理は大忙しだった。
 I‐Maidenのフォログラフィ・ライブに向けて、曲の振り付けをし、それらをグラフィックの形でデータ化して微調整をする作業に追われる。機械の精度が高いため、それ程時間を食う作業ではないとはいえ、二十曲近い曲の振りのデータ化を行うのは流石に一苦労だった。結局終了したのがライブの四日前。その後も技術班は映像の演出におおわらわだったのだが、幸いにもその辺りは恵理には関係なかった。
 そういう、いくらか楽な気分で、恵理はフォログラフィ・ライブ会場のドームへと足を運んだ。I‐Maiden計画の最後の総仕上げということで、関係者のほぼ全員が会場へ招待されていたのだ。関係者以外立ち入り禁止の表示を抜けて、廊下にとぐろを巻いているごてごてしたコードに足をとられることなく、すいすいとドームの深奥へ向かっている。唐突に左横の扉が開いて人影が姿をあらわし、彼女の行く手を遮った。
「永作さん、どうもおはようございます。お疲れですねえ」
 眼前の不精髭が顔の下半分を覆っている男が小さな動きでこちらに視線をやる。
「ああ、大野、君が行くのはVIP席だろう。それなら今過ぎた階段を上るんだぞ」
疲れのせいか、いつもの愛想の良さがない。まあ、技術班は全員大変なのだろうけれど。
 教えられた通りにVIP席への階段を上っていくと、一般の観客席からのざわめきが微かに伝わってきた。それをかき消すように自分の足音が響くのを感じながら、恵理はちょっとした優越感に浸る。この観客たちのうちのいくらかは彼女の力で手に入れたものなのだ。
 そんなことを考えつつ、ようやく階段を上りきってVIP席の扉の前まで着いた。トレーナーにジーンズといったラフないでたちであったが、軽く襟を正し前髪を整えてからドアを開ける。
「おや、遅かったね。皆もう揃ってしまっているよ」
 今回のオーディションの件を恵理に知らせてきた男がこちらに気付いて声をかけてきた。その向こうには上層部の面々が見える。後は知らない面々が並んでいた。その視線に気付いたのか、声をかけてきた男が恵理の方へ向かって説明を始める。
「あそこにいるのが作曲家の新田さん。その隣が作詞家の中森さんだ。どちらもI‐Maiden計画の要となる人さ。無論、君もそれに含まれるけどもね」
「私もそれにはいるのかしら?」
 背後から不意に声が響いた。恵理が心のどこかで聞きたがっていた声。間違えようもないあの声。
「三浦さん!」
「どうもお久しぶり」
 三浦は久闊を叙すと素早く封筒を目の前に掲げた。
「私のところにもこんなものが届いたって言うのは、私も関係者の一人として遇されているっていうことかしら?」
「ああ、もちろん」
 男の返答に、三浦は満足そうな笑みを浮かべて室内へ入っていった。その後に恵理も素早く続く。手近なところにあるカクテル・グラスを取って口元へ運びつつ、三浦は恵理のほうを一瞥した。
「そのカッコ」
「はい」
「もうちょっと何とかしたほうがいいわよ」
 そう言う三浦はパンツスーツで決めていた。
「まあいいわ。今日はあなたが主役の一人なんですもの」
 三浦は軽くカクテルグラスを掲げて見せる。空いた方の手でもうひとつグラスを取ると、恵理へと手渡した。
「それじゃあ、もうすぐ始まるあなたの一世一代の大舞台に」
「乾杯」
 クラスが澄んだ音をたてるのを聞きつつ、二人はVIP席に設えられた大きな窓から会場のほうへと視線をやった。

 星星に彩られた天上からひとつの光の塊が降って来た。開かれたドームの屋根を通過して会場の空中で停止する。物理上ありえそうにない動きだ。光量がやがて大きくなり、やがて光が三つに分裂した。
「アーイー!」
「メイちゃーん!」
「テンさまー!」
 方々から歓声が響く。その中で球形の光が人型へと変化していった。十代後半のあどけなさを少し残した少女の体のラインがはっきりとしてくる。やがて光一色に染められたものの中からさまざまな有彩色が現れていった。剥き出しの体のラインも服を着けたものへと変わっていく。
「みんなー、元気―?」
 光から生まれた三人の少女─I‐Maidenの三人が声をそろえて客席へ呼びかけた。うおわあああ、という歓声が反応として返ってくる。
「それじゃー、いくよー。まずは新曲─」
「トリプルD!」
 曲名が客席から一斉に返ってくる。I‐Maidenの三人は、うん、と満足そうにうなずくと、ざっと踊りの体勢に入った。シンセサイザーの軽快なリズムが響く。空中に床か何かがあるかのようにステップを踏んで、三人そろって前奏に合わせて動き始めた。歌が始まろうというところで、三人のうちミディアムヘアの少女が動きのリズムを離れて、その場でジャンプするような仕草を見せる。不可視の床に着地─はせずにそのまま落下していく。
「D! D! D of dive!」
 残り二人が歌っている間も、少女は落下してゆく。その姿は水中にいるかのように揺らめいて見える。体を丸めて足で水を蹴って、水平方向に伸びをしてそのまま進んで行く。観客席が手で触れられるくらいのところまできたときに、彼女が笑い顔になった。その口から出る気泡までがリアルだった。そのまま客席の中を観客の体をすり抜けるようにして泳いで進んでゆく。ようやく、一回目のサビが終わる辺りで、ほかの二人のいるところへと浮上していった。
「D! D! D of drive!」
 戻ってきた少女とは反対方向にいたロングヘアの少女が何かを跨ぐような仕草をする。.彼女が跳んだ先には小さなオープンカーのようなデザインの車が現れていた。ハンドルを握るとアクセルを踏んで一気に加速する。音は流石に曲の邪魔になるので殆どなかったものの、それ以外はリアルだった。今回は、少女たちよりも上の方にある観客席の方へ向かっていった。上方から見ると、半時計回りに客席を旋回しつつ、右ハンドルのシートから手を外側へ突き出すと観客の手が無数に群がってくる。そうやって客席を何週かした後に、ようやくもとの位置へ戻ってきたところで、車は消えていった。
「D! D! D of dance!」
 真中にいたポニーテールの女の子が二、三歩前へ歩き出す。一瞬にして彼女たちにとっての床の上に浅く水が張られる。その水を蹴立てながらポニーテールの少女は踊った。その動きにつれて水も踊る。大きな流れ、小さな水滴。様々な形で彼女に従う。その水は物理上ありえないほど遠くへも飛んでゆき、観客席の辺りで消えた。曲全体が終わる頃になってようやく、彼女たちの足元の水も消えた。その代わりに歓声が会場を埋め尽くしている。

 そのころ会場の地下階では、技術班が画面の中のメーターに釘付けになっていた。
 観客席、会場で販売される記念品、あらゆるところに観客の思念を集めるためのインターフェイスが取り付けられていた。そのインターフェイスからの思念量が逐一この画面上には表示されるようになっていた。今のところは順調に思念量は増加していっている。
 それでも落ち着かない気持ちを抑えるのに、タバコをふかしながら、永作はじっと画面を見つめていた。

 ライブは順調に進み、I‐Maidenの三人は多くの歓声、拍手、そして視線を浴びた。彼女たちがホログラフィであるが故に可能な衣装の変化や動きに観客は魅了されていく。
 しかし宴のときは望んでも永遠に続きはしない。観客からのアンコールの要請に応じて出てきた三人の少女はどこか悲しそうな面持ちで観客のほうを向いた。
「みんな、今日はありがとうございました。楽しかったよね、メイ、テン」
「はい〜、ぐすっ、とても、満足っ、ぐすっ、です〜、ぐすっ」
「こらこらメイ、涙ぐむな。こっちまでうつってくるだろ」
 ポニーテール、ミディアムヘア、ロングヘアの少女がそれぞれ順にコメントをする。後の二人がお互いを泣きやませるのに苦労しているので、ポニーテールの少女がコメントを続けた。
「それでは、アンコールの方へいきたいと思います。このために今日発表の曲を用意しました。盛り上がりたい人にはちょっと不満かもしれませんけど聞いてください。ほら、メイ、テン」
 どうやら泣き止んだらしい二人をしゃんと立たせてから、自分も姿勢を整えて、ひとつ大きく息を吸った。
「夜明けのSilver Moon」

  私 夜明けとともに消える月
  太陽の前では輝けない
  でも、それでもいいの
  太陽の知らないことを知ってるから

  暗闇の中を走る、走る
  あなたは私を見て 
  行く先を決めてたね

  手探りの中捜す、探す
  私はあなたへと
  光をあげるだけ

  でも、あなたが心から求めてたのは
  いまだ見ぬ夜明けへとたどり着くこと

  私 夜明けとともに消える月
  覚えていてなんて言わない
  でも、それでもいいの
  太陽への思いの深さ知ってるから

 間奏に入ると同時に、三人の少女の体が上昇を始めた。同時に次第に体が大きくなり、そして薄れていくように見える。少女の体を通して星の輝きがわずかに見えた。彼女たちは何の異変もないかのように歌い続ける。

  でも私がどれだけ拒んでいても
  あなた今夜明けへとたどり着いたの

  私 夜明けとともに消える月
  太陽の前では輝けない
  でも、それでもいいの
  太陽の知らないことを知ってるから

  私 夜明けとともに消える月
  覚えていてなんて言わない
  でも、それでもいいの
  太陽への思いの深さ知ってるから

 いまや殆ど完全に輪郭の崩れ去っている三人の少女に、惜しみない歓声と拍手が送られる。それによって生じた大量の思念が会場に設置されたインターフェイスを通じて地下の機構へと流れ込んでいった。
 VIP席のほうに、思念の量が計画のボーダーラインに達したという知らせが技術班から届いて、その場にいた者たちは胸をなでおろしつつ、夜空を見上げた。
 会場にいる者たち全員の視線の中で、少女たちの姿が夜空に溶け込んでゆく。それは夜空というより宇宙と呼んだ方がよいかもしれない。
「成功、らしいわね」
 三浦がそう言ってこちらの方へ笑顔を向けた。彼女のこういった素直な笑顔を見るのは初めてかもしれない。
「うん」
 恵理も星空を見上げて笑っている。
 きゅん─
 不意にその瞳の動きが停止した─。
 糸の切れた人形のように膝が崩れ、そのまま仰向けに倒れこむ。素早くそれに反応した三浦が恵理の体を支えた。動かない目を開けたまま三浦の胸を枕にして、恵理はじっとしている。
「大野さん? 大野さんってば!」
 いくら呼んでも反応が返ってこないことの焦燥感にかられて、三浦は恵理の体を揺さぶった。次第にその揺さぶりが激しくなる。自分の腕が周囲のものにぶつかる音だけが返ってくる。恵理は苦しそうな表情ひとつ浮かべずに、虚空を見つめているだけ─。

 駆動音が次第に弱まっていく。暗闇の中でその音を聞きながら、指揮官は感慨にふけっていた。
 既に彼の指揮していた要塞は、多くの部分の活動がストップしていた。戦争は終わったのだ。多くの激戦を自分とともに戦ったこの要塞も最早その役目を終えたのだった。
 その要塞の統御コンピュータの回路をつないでいる、剣の形をしたキーを固定しているロックを外す。その周囲の赤いLEDの光が注意を促すように目に飛び込んでくる。それに構わず剣の柄に手をかけた。これを引き抜けば、要塞の機能は完全にストップする。
 死ぬ、というのは少し感傷的過ぎる考え方であろうか。
 そう考えると、自分がこの要塞を殺したという罪悪感につきまとわれるので、頭を振ってその考えを追い出すと、そろそろとキーを引き出し始めた。何の抵抗もなくキーが抜けてゆくことに背中が粟立つ。このキーも抜かれた後は回収され、スクラップ処分される。もう再起動はありえなかった。手がとめどもなく震えた。
 ようやく完全にキーを抜き取った時には、それ程の仕事をしたわけでもないのに、汗のせいで服が肌に張り付いていた。力なくキーを持っている右手をたらして、大きく息を吐く。
「任務完了」
 何もかもが終わったのだ。

(了)